「海水浴4」


ざざーん。ざざーん。
絶えず寄せる波によって削り出された洞窟は、淡い光を放つ苔に覆われているせいか、ほの明るい。
ここは地元住民すらも忘れた神域。目をこらせば、木造の小さな祠があるのが見えるのだが、周りを見る余裕など彼にはありはしなかった。
黒髪の少年の目の前に横たわる、同じ年頃の金髪の少女。
彼女は意識を失っているのだろう。好奇心旺盛な良く動く青い瞳は固く閉じられ、ぐったりとしている。
ほんの数日前に出会った異性に見せるにしては無防備な姿。
少女も少年も身に纏っているのは水着だけ。
ぐっしょりと濡れた肌が冷涼な風に撫でられ、その火照りを奪ってゆく。
体温とは逆に鼓動が早くなっていくのを感じる。
しばし逡巡して、少年は決心したのか少女の頬に手を添える。
そして、顔を近づけ少女と唇を重ね──。



「あなたに『一緒にボートに乗ろう〜』なんて誘われるとは思ってなかったわ」
ボートをこぐ手を止め、ミリィは言う。夏の強い陽光を遮る物のない洋上。少女の綺麗なブロンドがキラキラと輝く。
「それに誘っておきながら、腕力がないからこげない〜ってどゆこと?」
言葉は非難する内容だが、彼女自身は楽しんでいるように見える。
「……それについては選択を誤ったと反省している」
だから触れてくれるなという風に、ルルは視線を逸らす。
そもそも、「恋人同士」のサンプルがザクとフェミアしかいなかったのだ。野生児ザクのしそうなことを、温室育ちで非力なルルがこなせるはずがない。恋人どころか女友達もいなかったルルに、「恋愛経験皆無なミリィの最後の思い出作り」は過ぎた仕事なのは火を見るよりも明らか。
海という場所は、気持ちを開放的にさせるだけではなく、明晰な頭脳まで狂わせてしまうらしい。
「それに、ナリは船が苦手だって言うのも嘘でしょ?そんな嘘ついてまで一緒にボートに乗りたくなる程ミリィさんに惚れちゃったのかな?」
「それは……」
本当のことを言ってしまおうか戸惑っていると。
「なーんて、冗談よ。ミリィにかまってやってってカノンに頼まれたんでしょ?ありがとね」
いつもの笑顔でミリィは言う。おちゃらけているようでいて、周りをよく見ているらしい。
「いや……まぁ」
皇子として生まれて、皇子として育ってきたから、他人の顔色をうかがう必要が無かった。だから、今まで他人の小さな表情の変化に気づくことは無かった。それなのに。
ミリィの微笑みの中に、微笑みとは違う物を見つけて。
「それも確かにあるんだが……。本音を言うと、君とまた話がしたかったんだ」
「話を?」
妹に見せる優しい顔で、ルルは照れくさそうに言う。すると、彼女の表情が寂しさの混じった微笑みからキョトンとしたものに変わる。
彼は紡ぐ。相手に喜びを与える、優しい嘘を。
「ああ。君と話していると、気づかされることが多いから」
「……そう……気づかされることが……」
反芻するように呟いて、
「じゃあ、お望み通り、ミリィさんが思う存分会話してあげましょう☆さてさて、話題は何が良いかしら?」
いつもの真夏の太陽のような笑顔に戻る。
それにホッとしている自分に気づく。
それは、カノンの「お願い」があるからなのか。それとも「お願い」抜きで、彼女には暗い顔をしていて欲しくないからなのか。どちらかは解らない。以前のルルならきっぱり前者だと断じただろうが。
「やっぱり。君は笑顔の方が素敵だよ」
自然とそんな言葉が出てくる。
「もー。からかわないの!」
そんな綺麗な顔の人にステキーとか言われたら、恥ずかしいじゃない?と言ってはいるが、喜んでいるのが解る。
本当に恥ずかしいのだろう。紅潮する頬を両手で覆い、恨めしそうな目でルルを見つめている。が、それも潤んだ瞳と上目遣いに近い表情で、可愛らしく見える。
「本当だよ。君の笑顔は素敵だし、とても可愛らしい。美の女神が嫉妬するくらいに」
ザクのように素直な気持ちで。ナイゼルのように気取った単語を選んで言ってみる。
ちょっとキザすぎたかと思ったが。
「むぅ。……そんなこと言って。私があなたを好きになっちゃったらどうするのよ?」
喜びと困惑がない交ぜになった表情。先程の冗談の時とは雰囲気が違う。
ミリィのことは嫌いではない。気に入っているからこそ、好きになってしまえとも、好きになってくれるなとも言えずに、ルルは狼狽えてしまう。
「リア充爆発しろ!」
沈黙が訪れそうになった二人の間に、第三者の雄叫びが響く。
「リア充爆発しろ!」
今度はさっきよりも近い所で聞こえる。
「なに?」
「リア充は……爆発しちまえぇぇぇ!」
その声の主が、声変わり前の少年だと気づいた瞬間、二人の乗ったボートがひっくり返される。
二人を突然海に落とした犯人は「きゃははは」と嬉しそうに笑って逃げていった。



たどり着いた陸地に登る。海の音が響く、薄暗い空間。先程の砂浜から見えていた岩場の洞窟に流れ着いたのだろう。
あの辺りは流れが速かったようで、魔法で補助したにも関わらず、かなり流されてしまった。
荒波で気を失った少女を陸にあげる。ボートから落ちた瞬間、彼女が手を伸ばしてこなければ、こうして同じ場所に流れ着くことはできなかっただろう。泳ぎが苦手らしい彼女一人だったら、溺れ死んでいたかもしれない。
「ミリィ」
外の暑さが嘘のようにひんやりとした洞窟。自然発生の物だが、少なからず人の手も入っているのだろう。足下の岩は綺麗に装飾されており、タイル張りのようになっている。そこに力なく横たわる少女に声をかけるが、返事は無い。
昔、フェミアと一緒にザクに習った救命法を思い出しながら、実践する。
意識が無い。脈は有る。呼吸は……無い。その場合は、気道を確保して、人工呼吸を。
てきぱきと教えられた通りにこなしていく。
後は、鼻をつまんで、大きく口を開け相手の口を覆い、静かに息を一回吹き込む。
記憶の通りになるように、ルルはミリィの鼻をつまみ、息を吸い込み、顔を近づける。
「ミリィ、恋をしたこと無いって言ってたから」
と、唐突にカノンの言葉が浮かび、寸前で硬直する。
何故、今。そんな言葉を思い出すのか。
恋とか愛とか関係ない。命が危ないから、やらなくてはならない。決してこれはキスではない。
そう心の中にある変な意識を否定して、もう一度、人工呼吸を試みる。
が。視界に入ったミリィの柔らかそうな唇にドキッとして、再び顔を離す。
違うと言い聞かせれば言い聞かせるほど、何故か胸の鼓動が早くなる。
意識するなと思えば思うほど意識してしまう。イケナイ事をしている気分になってしまう。踏み出せなくなる。
呼吸が回復するまでの時間が早いほど、命が助かる確率が上がるんだよというザクの言葉を思い出す。息が止まってからどれぐらい経つだろう?時間が無い。躊躇している暇は無い。
ルルは覚悟を決め、顔を近づける。ただそれだけで、心臓が脈打つ音がうるさく響く。
健康的な肌の色。長い睫毛。硬く閉じられた瞳。無防備な唇。
彼女を死なせてはいけない。彼女に生きていて欲しい。それだけを考えて。
そして彼は、ついに少女と唇を重ね──。
「う……」
唇があと少しで重なるかという所で、ルルの物でない声がした。そして、間髪入れずにミリィは咳き込む。
「ミリィ!」
体を曲げ、盛大に咳き込む彼女の背をさすってやる。と。
「あー。お花畑で手を振ってる人がいたー。危なかったー。死ぬかと思ったー」
ゼイゼイ荒い息から、次第に普通の呼吸に戻っていく。
「よかった。……外傷は見当たらないようだが……痛むところはあるか?」
安堵で腰が抜けたことを誤魔化すため、ルルは尋ねる。
ミリィは、座ったまま軽く体を動かして。
「足、くじいちゃってるかも」
右足を指す。腫れていたり傷が付いていたりするわけではないので、波にもまれている間に軽く捻ったんだろう。
「ちょっと寒いかもしれないが、少し休んで、それからみんなの所に帰ろう」
「お姫様だっこで?」
さっきまで死の淵を彷徨っていたとは思えない、いつも通りのミリィの姿に、ルルも本来の姿を取り戻して。
「それだと、ここから出るまでに一年くらいかかるだろうな」
自信満々に言った。