2. ( 8/17 - the first mission )
「ふぁぁぁぁ。眠ぃ」
時刻はお昼過ぎ。スコットはいつもの様に遅い朝食を摂ろうと、食堂へ寝ぼけ眼で向かう。
空気中に漂う香りが、近付くにつれて明確になってゆく。
「今日の当番はシューだったかな。期待できそうだ」
エリエール号内で1,2を争う料理上手、シュー。
漂ってくる香りはスコットの好物、シチューの香り。
それだけで、今日はいい日になりそうな気になってくる。
「おはよー、皆の衆ー。……?」
上機嫌で扉を開けたスコットに注がれる船員たちの視線が、冷たい。
「何だよみんな、恐い顔しちゃってさ。何?何かあったの?」
新入りの少年と談笑していた輪から外れて、トカゲ顔の男、レットが肩を怒らせてやって来る。
「おうおう下っぱ。昼過ぎに起きてくるとは良い度胸じゃねぇか」
長身であるスコットよりもさらに高い背を猫背にして、スコットの顔を覗き込む。
元々怖い顔が、より一層怖く見えるが、
「だってさー、昨日遅くまで掃除してから疲れちゃって」
意に介すことなくスコットはいつもの飄々とした口調。
「こちとら、朝メシ前に掃除やら洗濯やら済ませてんだ」
「昨日の分は今日のノルマに含まれないから、何か一仕事するまでスコットはご飯抜きだよ」
同い年であり、エリエール海賊団旗揚げ時からの仲間ということもあって、レットとティルに遠慮というものはない。
「えー、いくら少年に船長さんを譲ったからってその扱いは酷くない?せめて副々船長さんってことでさ、朝食ちょーだい」
猫撫で声。この船最年長の三十歳でありながら、二十代前半にしか見えない容姿と、持ち前の人懐こさで、可愛らしく見える。
「ダメだ」
スコットの言葉に即答したのは少年。
「アンタは昨日、私に船長の座を譲った時に、自分のことを平船員と言っただろう?」
「そうだっけ?」
「それに、アンタは船長であるということを良い事に、雑用は全て他人任せ、仕事は気が向いた時に少ししかしないと聞いたが?」
線の細い少年を取り囲む屈強な男たちは、皆、一様に頷く。
その様子を見たスコットは、口を尖らせる。
「この船でどう在ろうと俺の勝手でしょ?俺、この船の最高責任者の船長さんなんだし」
スコットの言葉に、少年は微笑む。
とても、美しいとしか表現できない笑顔で。
「つまり、最高責任者である船長の言うことには、誰もが逆らえないということだな。したがって、元船長は下っぱ船員に降格。今までサボってきた分を取り戻すがごとく馬車馬のように働くように」
「なッ」
理論を逆手に取られ、絶句する。
「私がネピアまで船長なのだろう?異論があるのか?」
勝ち誇った表情。刃物の扱いも、体術も、海賊には及ばない彼の唯一の武器なのだろう。
ギャラリーたちの、新船長讃歌にはムッとするが、彼がこの船に打ち解けることができるなら、反論する謂れは無い。
「あーもう、分かったよ。で、俺は何をすれば飯を食えんの?掃除とか一通り終わってるんでしょ?」
皆、そこまで考えていなかったようで。
少しの沈黙の後、エリエール海賊団内最年少のシューが怖ず怖ずと口を開く。
「クレスさん、大分汚れてるから、お風呂に入ったら良いと、思う」
彼の言葉を受けて、回りの男たちも賛意を表する。
「クレス……?」
スコットが首を傾げていると、少年が手を差し出してきた。
「紹介が遅れたな。私は、このエリエール号の船長に就任した、クレス・エルビラだ」
「エルビラ公爵……ね」
少年に聞こえない大きさで呟いて、手を重ねる。
「あー、俺は元船長さんのスコット」
「よろしくな。元船長」
名前をしばらく覚えてもらえない気がした。
窓が一つだけある、他と何ら変わりのない板張りの船室。白い磁器性の浴槽と、備品を入れる棚、目隠しの衝立があるだけのシンプルな部屋。
「湯加減はどーよ?」
「まあまあ」
スコットの呼びかけに、仕切りの向こう側で湯浴みしているクレスは、顔とは真逆の可愛くない言葉を返してくる。
「ひっでぇ。食堂で湯を沸かして、重たい壷持って、四往復もしたっていうのに。『素晴らしい湯加減です、ありがとう』くらい言えないの?」
持ってきた沸きたての湯入り壷を、先程と同じく仕切りのこちら側に置く。
「素晴らしい湯加減です、ありがとう」
聞こえてきた声は、スコットが望んだ通りの、しかし感情が全くこもっていない言葉。
「やっぱり可愛くない」
「アンタに可愛いと思ってもらう必要性を感じないだけだが?」
しれっと返してくる。
「……あーそー……」
諦めて、仕事に戻る。と言っても、湯の追加は終わったので、後は入浴後の掃除くらいしか残っていないのだが。
「じゃあ、着替えは棚の上に置いとくよ。今まで着てたのは明日洗ってもらうから。あと、何かある?」
少し考える気配がして、
「特にないな。休んでいてくれて構わない。
暇すぎるからって覗くなよ?変態下っぱ元船長」
「あーはいはい。男の裸を見る趣味はないから安心してください、クレス新船長殿」
適当に返事をして、スコットは浴室を出て行く。
彼の足音が遠のいたのを確認して、クレスは息をつき、浴槽に沈み込む。
昨日の件のせいで、スコットに対してついつい憎まれ口をたたいてしまう。
「私は上手くやれてる……?」
船員たちの態度を見る限り、あの船長は気安い性格のようだ。それに騙されて、上手く操られている気がしてならない。
天性の素質にしろ、考えてのことにしろ、無事に帰るためには雰囲気に流されてはいけない。
「それにしても、良いお湯」
彼が自信を持って「素晴らしい」と言うのが分かる。
沸かすときにハーブでも入れてあったのか、湯からはほんのりと心安らぐ香りがする。好きな温度に調節できるように、沸かしたての物と水のままの物、両方が置いてある。
細かい気配り。
この浴室といい、海の男たちの荒々しいイメージにそぐわない。
「?」
ふと目をやった船の後方を映す窓。
海と夏空だけの景色だが。
「旋回している……?」
体には感じない速度で、船は向きを変えているようだった。
「スコット」
甲板に顔を出すと、ティルが柄にもない焦りを浮かべた表情で、遠見用の台からするすると降りて来る。
「何?俺、まだ朝ごはん食べてないんだけど」
クレスの世話を終えて、すぐに食堂に向かったのだが、甲板の方で呼んでいるからと追い出されてしまった。
お腹は先刻からエネルギー不足の警告音を発している。
「先にご飯食べてからじゃダメ?」
「無許可船が」
ティルの短い一言に、腹ペコで緩んでいたスコットの顔が引き締まる。
二十年前の戦争を機に、設立された帝国運輸局。国内、外を問わず物を運ぶためには、ここに申請し、許可を得なくてはならない。
「ダメ……ね」
先の戦争が、内乱から始まったことから、武器や奴隷の輸送は違法とされている。違法な荷は、運輸局の許可を通らないから、運輸録には載らない。
「今日ここら辺を通る船はないみたいだから、間違いないかな。帝国旗も見えないし」
緊急で出航する船には特別措置として、複製が難しい色、柄の帝国旗が貸し出される。
「さーて、どこの馬鹿貴族かなっと」
望遠鏡からシューに目を移す。
シューは望遠鏡を覗いたまま、
「マストの位置、側面の造り、装飾。ホシツ地方の技師、ハンナ・セレブ氏の二年前の作品です」
ハッキリと言い切る。
スコットに言わせれば、どの船も同じに見えるのだが。造船の街出身のシューには見分けがつくらしい。
「所属はウイング伯爵領」
脅威の記憶力で、船籍まで割り出してしまう。
「またか……」
ウイング伯所有の無許可船に出会うのは今月で三回目。何か企んでいると見て間違いない。
「どうする?スコット」
困惑した幼なじみの顔。
仕事熱心な彼が戸惑うのは、昨日から乗っている少年の存在があるからだろう。
「んー。まぁ、何とかなるでしょ」
軽く応じて、船を寄せるよう指示を出す。
相手の船はエリエール号の半分のサイズ。多く見積もっても十人は乗っていないだろう。
「後は、僕ちゃんが長風呂なのを祈るばかりだけど」
「方角が変わったようだが、何かあったか?」
スコットの祈りもむなしく、船室の扉が開く。
白いシャツに、茶色の短パン、そしてサンダル。スコットの物だからサイズがぶかぶかだが、多少は海の男らしく見える。
「無許可船を見つけたから、退治しちゃおうと思ってさ」
「無許可船?」
手渡された運輸録と、望遠鏡を覗く。
「……そのようだな。それにしても、運輸局の重要機密の帳簿を何故アンタたちみたいな海賊が持っている?」
値踏みするような視線。世間で言われる海賊と何かが違うことに気づいているのだろう。
「それは俺たちがパトロン付きの正義の味方だからかな」
「ふ。まるで物語に出てくる海賊のようだな。まぁいいだろう。あの無許可船を討つぞ」
何だかヤル気を出したようで、船首にずんずんと向かって行ってしまう。
「おい、お前、戦闘経験は?」
経験どころか、腕力自体なさそうに見えるが。
「皆無だ」
振り向き、即答。呆気に取られ、返事に詰まっていると。
「だから私を守れ。船長の命令は絶対なのだろう?」
さらっと無理難題をふっかけてくる。
「はいはい。ワカリマシタ船長さん」
溜息と一緒に応じて、近付いてくる船を見る。
海賊旗に気づき、慌てた雰囲気を見せる無許可船に、堂々とした様子でクレスは問いかける。
「そこな船、運輸録に載っておらぬようだが、何か申し開きはあるか?」
当然、返事がある訳もなく。
たっぷり十秒待ってから、クレスは開戦の合図を送る。
「主らの荷は、我らエリエール海賊団が頂く。行け、下っぱ!」
「あいあい。じゃあ、行きますか」
休憩から戻ったトイと操船を代わった武闘派のペッパーに目配せする。
「あいさー」
二人は跳躍力だけで飛び移る。
もうすでに臨戦態勢だった無許可船の乗組員たちは、素早い動きでスコットとペッパーを囲む。
敵の人数は五人。銃を使わないところを見ると、以前と同じく積荷は火薬のようだ。
「やっぱ簡単には行かないか」
今までとは違い、船員に腕の立つ者を雇ったのだろう。スコットとペッパーを見ても、怯まずに剣を向けている。
「さてと」
剣を振りかぶり、襲いかかって来た敵の攻撃を、ゆっくりとした柔らかい無駄のない動きで避け、相手の腕を握り、締め上げる。
「お腹空いてるからさ。遊んであげる余裕、無いんだよね」
敵が取り落とした剣を奪い、柄で殴る。
続いて来ていた男の刃を受け流しつつ、足払い。
バランスを崩した所に、拳を叩き込む。
ペッパーの方も、鮮やかな手並みで近くにいた二人をのしていた。
「後はお前さんだけですヨ」
残った最後の一人を片付ければ終わりという所で。
「動くな!」
エリエール号の方から聞きなれない男の声。
「コイツの命がどうなっても良いのか!?」
目を遣ると、そこには無許可船の乗組員。
その手にはナイフ。その刃はクレスの首に当てられていて。
死角からの奇襲だったのだろう。ティルが気づけなかったことを視線で侘びている。
「あー、はいはい。こうさーん。降参しまーす」
剣を放り投げ、両手を挙げる。
「何をしている!悪に屈する気か!?私の事になど構わず」
その様子に異を唱えるのは、一番身に危険が迫っているはずのクレス。
「動けばコイツを殺す!」
ぐぐっと刃が抑えつけられる。少しでも動かせば、皮膚を切り裂き血が吹き出す。それくらい強く。
「剣を拾い、戦え!」
「やだ。船長の命令は絶対だけど、それだけは聞いてやんない」
ニッと笑う瞳は、まだ諦めていない。
「でも、それじゃあ……」
クレスが捕まっている限り、彼らは手も足も出せない。
「やれ」
クレスに刃を突きつけている男の指示を受け、無許可船で唯一残っている男は、スコットに近寄る。
「あー、痛いのは嫌なんだけどなー」
堅く握った拳が、スコットの腹に何度も打ち込まれ、痛みに膝を折ると、背を踏まれる。
「やめろ!私の命なんて守る必要は無い!誰かを犠牲にしてまで生きる価値は私には無い!私なんかのために、人が死ぬのはもう嫌だ!!だから……」
兄も姉も弟も妹も、家族はたくさんいる。が、それぞれが跡取りを巡って対立している。唯一の味方であった母も病で亡くなり、話し相手も兼ねていた護衛も先の事故で失った。
もう、私を必要としてくれる人などいるはずがなかった。
もう、生きていても意味がないと思っていた。
スコットは立ち上がる。
倒された際に擦りむいた唇の端から血が流れるのを拭い。
「ごめん、聞けない。俺ってば、家族を命がけで守る超素敵な元船長さんだからさ」
体が軋む。致命傷を狙っていた攻撃を、さりげなく急所から外すだけで手一杯だった。
「かぞく……?」
あまり派手に避けると、囚われのおヒメ様に傷が付いてしまう。
「そ。エリエール号で一緒に笑う家族の一人だよ、お前も」
柔らかな目。傷付いてボロボロになっても失わない優しい輝き。
涙が出そうになった。「私」を認めてくれるあの目を、失いたくないと思った。
落ちていた剣を拾った男が、剣で殴り付ける。
倒れたスコットの背を踏みつけ、剣を振りかぶる。
「スコット!!」
止めたいと思った。助けたいと思った。がむしゃらだった。
自分を捕らえている男の足を踏み、刃を押し付ける手が弱まった所を抜け出し、無許可船に近い手すりへと向かう。
クレスが逃げた瞬間、音も無く忍び寄ったティルに、男は倒された。
「スコット!」
「怪我は無いか?」
のんびりした声。スコットを襲っていた男は、クレスが逃げた事に気づいたペッパーによって昏倒させられている。
スコットの肩口は血で濡れていて。
クレスは言葉を返せない。
「ティル。レットと一緒に積荷の回収頼むわ」
「あいさー」
縄梯子でエリエール号に戻るスコットと入れ違いで、ティルは無許可船に降りていく。
「スコット」
手当てをしようと船室に向かう所で、クレスに呼び止められる。
「ごめんなさい。私が足手纏いでなければこんな事には」
普段とは違う、大人しい様子。
体が微かだが震えている。
「怖い思いさせちゃったな。大丈夫だったか?」
大きな手で、ポンと頭をなでられる。
温かいぬくもりに、我慢していたものが堰を切り、あふれ出す。
「ごめん……なさい」
嗚咽を押し殺し、ただ謝り続けるクレス。
足手纏いになってしまったこと。
スコットに怪我を負わせてしまったこと。
彼の優しさを疑っていたこと。
優しいから、全てを許してくれそうな気がしたが、謝りたくて。
ふわりと、涙で揺らぐ視界が暗くなる。
海の香りと、懐かしい香りがして。
「そーか、怖かったか。可愛い所もあるじゃん」
頭を撫で、不安を除くかのように抱きしめる。
今はもういない、大好きだった一番上の兄と同じ香りの胸で、クレスは久しぶりに泣いた。