3-b. ( 8/18 - requiem )
領主の館というのは、街の中心にあるものだ。それは、領民の姿が傍にあれば善政を敷くことを忘れないからという建前もあるが、本心は違う。今は平穏な時が続いているが、前皇帝の時代までこの国は大なり小なり戦が頻繁に起こっていた。故に領主は、街という存在を盾とするために中心地に居を構えるようになった。
そんな領主の館のイメージをぶち壊すかのように、その城は街外れの海の中に佇んでいる。
領民から「海の城」と呼ばれ、親しまれるウイング伯爵の本邸は、陸と一本の橋でつながった小さな島に建てられている。白い優美な城。風景を楽しむためにと、このような場所に別邸を設ける貴族は数多くいるものの、本邸として使っているのは彼らだけであろう。国境が近いというのに危機感が無いように思えるが、ここの海域は見た目の穏やかさからは想像できないほど複雑な流れを持っており、玄人でも容易には乗りこなせない。島に近づけたとしても、海面から城まで続く急峻な崖を登ることはできない。もちろん、橋の両端には検問が設けられている。
天然の要塞とも言えるウイング伯爵邸に、潜入するのは不可能なはずだった。
だったのだが。
「あいつ、ホント誰なんだろ?」
人気のない廊下を不用心にてくてく歩きながら、スコットは呟く。
窓から差し込む月明かりで、視界に不自由はない。式典を兼ねた晩餐会に意識が集中しているせいか、建物の堅固な守りのせいか、どちらかは解らないが、見回りの兵もいない。
彼の手には、屋敷の見取り図。「あそこには行ったことがあるから」と、クレスが書いたものだが、貴族の邸宅にありがちな裏通路が事細かに書き込まれている。それも、屋敷の主人も知らないんじゃないかという物まで詳細に。そのおかげで潜入不可能の天然要塞に楽々忍び込めたわけだが。「行ったことがある」の程度を逸脱した情報量もそうだが、裏通路は精密なのに表通路が大ざっぱなのも気にかかる。
「エルビラ公爵だって名乗ってたじゃねぇか。同じ貴族なら屋敷にお呼ばれすることもあんだろうよ」
呟きに応えたのはレット。
「でもねー」
エルビラ家は古くから続く血統故に養子を良しとせず、不運にも子宝に恵まれない世代が続き、やっと生まれた一人娘も皇族に嫁いでしまったので、戦時中に断絶していたはずだ。落胤がいるなら断絶する前に見つけ出しているだろうから、クレスとエルビラ家は何の関わりも無いことになる。
「あいつ、シュー並に記憶力良いし、好奇心も旺盛だし。冒険〜♪とか言って小せぇ時に屋敷ん中、駆け回ってたんじゃねぇの?」
料理好きのスコットが、目に付くたびに購入したために無尽蔵にあるスパイスの位置と種類と残量を、クレスは完璧に把握していた。レットの言うことも一理ある。
それでも、彼がどこの貴族なのかという謎は深まるばかりで。
「んー、じゃあ、そういうことにしとこっか。じゃ、お次はメインディッシュね」
適当に相づちを打って、スコットは扉を開ける。
メインと言える表の通路と部屋が、いい加減な表現になっているクレスの地図では、ここは「伯爵の部屋?」と表記されている。
やはり、賊が入り込むことなど考えてもいないのだろう。扉には鍵が掛かっていない。
「さーて。さくっと探しちゃいましょーか」
室内には重厚な飾りの机と書棚が置いてある。クレスの予想したとおり、伯爵の仕事部屋に間違いなさそうだ。
半袖を着ているのだが、シャツの袖をまくり上げる動作をして、気合いを入れるスコットをにやついた顔で見つめ。
「珍しくやる気じゃねぇか。やっぱクレスに任せて正解だったみてぇだな」
「船長の命令は絶対だからさ、仕方ないじゃん。にしても酷ぇよなー。あの時みんなで寝たふりしてたなんてさー」
肩をすくめたかと思ったら、口を尖らせる。皇帝の関わる仕事だというのに、いつもと変わらず表情豊かなスコットに、レットは安堵する。
初めて会った時は、心も表情も死んでいた彼が。次第に彼らしさを取り戻し、皇帝の名を聞いても平気でいられるようになった。
在るべき場所に帰る日も近いのかもしれない。
「俺たちが言ってもお前ぇは聞かねぇだろ?」
「当たり前じゃん。俺、元船長さんだし」
「だからだよ!」
無邪気な彼の頭を腕で抱え、髪をわしゃわしゃ乱暴に撫でまわす。抗議の声が聞こえたが、気が済むまでやめない。
自分は大家族の長男だったから。新人として来たスコットの世話役だったから。彼は精神的に幼いところがあったから。
同い年なのに。弟のように思っていた。
その彼の旅立ちが近い。成長が嬉しくもあり、寂しくもあった。
「もー。俺、お前の弟くんじゃないんだけど?」
レットの腕から解放され、乱れた髪を撫でつけながら不満を漏らす。
「似たようなモンだ。さーて、密輸の資料探さねぇとな」
「……そーですねー」
素っ気ないレットに納得がいかない様相で応えて、スコットは机の引き出しを漁り始める。
クレスの地図を暗記したシューと、隠密行動に長けたティルは密輸品探し。
大人数だと失敗するから、トイとペッパーは船で待機。
クレスは気になるところがあるからと、忍び込んですぐに単独行動。
ここの地図を描いたのはクレスだし、かなり正確な記憶のようだから大丈夫だとは思うが。
「あいつ、なにしてんだ?」
シャラン……シャラン……
久々に付けた耳飾りが重たく感じる。まるでこの身に生まれながらに背負った「責任」を表すかのように、重たい。
生まれてから一度も外したことがなかったから、こんなに重い物だとは思わなかった。
気づけて良かったと思う。
彼らに出会えて良かったと思う。
この夏に、失った物は多かったけれど。
この夏に、手に入れた物も多い。
そう信じられる。
だから、怖くない。そう、自分に言い聞かせて目の前の扉を開ける。
ウイング伯爵の息子、ロリエ・ウイングの私室。
几帳面な彼らしい、無駄な物のない整った部屋。ここに初めて入ったのは五歳くらいの頃だっただろうか。
私がやんちゃをするたびに、彼は困った顔をして。
ここは、あの頃から変わっていない。
「誰だ」
背後から掛かった鋭い声に、心臓が跳ね上がる。同時に、懐かしい声に涙が出そうになる。
やっぱり生きていた。彼の養父が黒幕だと聞いた時から、彼は生きているような気がしていた。
でも、それは最悪の邂逅。
彼の心を確かめなくてはならない。
揺れそうになる心を奮い立たせ、振り返る。
月を覆っていた雲が風に流されて、部屋に柔らかい光が差し込む。
お互いの顔が、見える。
私に気づいた彼が息を呑むのが、薄明かりの中はっきりと見える。
私は気持ちを隠し、微笑を浮かべ、
「生きていてくれて良かった。あの日交わした騎士の誓いがまだ有効ならば、私を手助けして欲しいのだけれど?」
手を差し出す。シャランと、首の動きに合わせて耳飾りが澄んだ音をたてる。
ウイング伯爵の計画の中には、私が助かることなんて織り込まれていないはずだ。私を助けたところで誰も得をしない。
それでも、ロリエは助けてくれた。
それに、賭けた。
彼はすぐには答えない。
ほんの数秒が、とても長く感じる。
彼は、ゆっくりと膝を折る。そして、
「神々の盟約のままに。我が心、主と共に」
よく通る声で紡がれた言葉は、あの日の誓いの言葉。
養父とは言え、父親を裏切るのだ。相当の覚悟が必要だっただろう。
仕方がないこととはいえ、辛い選択をさせてしまった。
「ありがとう。私を選んでくれたこと、後悔させないから」
贖うかのように、不敵に微笑んだ。
城の中心にある大広間。各界の名士が集まり、いつもは華やかな雰囲気で彩られるそこは、今日は厳粛な空気に包まれている。
オーケストラと合唱団が奏でる荘厳なレクイエムに合わせて、巫女が鎮魂の舞を踊る。
清らかな鎮めの舞に、しかし気持ちを高ぶらせる者がいた。
ポケット・ウイング。この所領の主であり、王に仕える身分でありながら皇帝暗殺を企てた男。
もう少しで、計画は成就する。もう少しで、この国は私の物になる。
長年の夢がもう目前まで来ている。
ポケットは、巫女の舞から目を離し、左手を見やる。
そこには、広間より少し高いところにある豪奢な席に座り、感情の見えない瞳で儀式を眺めている男の姿。彼はこの国を治める皇帝、ソフィ・クリネックス。戦争続きだったこの国を変え、豊かにした名君と称えられているが、裏の顔は違う。氷のように冷たく、合理的な手段を選ぶ非情の王。民のため、邪魔だと思った貴族は躊躇いもなく皆殺しにする、貴族の敵。
彼がいると、貴族すべてが穏やかに暮らすことが出来ない。
レクイエムが終わる。皇帝に捧げるレクイエムが。
計画では、階上のステンドグラスを突き破り、侵入してきた賊が皇帝を殺してしまう筋書きなのだが。
「父上、申し訳ありません」
しかし階上に現れたのは騎士姿の男。ポケットの息子、ロリエだ。彼は騎士の誓いを立てながら、主君を守ることが出来なかった。
騎士にとっての不名誉。周りの視線から守るため、逃げ延びる際に負った傷を癒すため、部屋で待機していろと言っておいたのだが。
「どうした?体はもう良いのか?」
「私は、やはり貴方に従うことは出来ない」
問いかけに返ってきた答えに、ポケットは眉根を寄せる。が、それもすぐに驚愕の表情に変わる。
シャラン……シャラン……
彼の後ろから現れた小柄な人影。白いシャツに茶色のズボン、いかにも平民の子という出で立ちだが。
皇帝と同じ金色の髪。強い意志を感じる青い瞳。
そして何より、彼女の身分を証明するものは。
シャラン……
両耳に付けられた銀色の耳飾り。丸いプレートに、触れ合って澄んだ音を立てる棒状の飾りがぶら下がっているだけのシンプルな物。だが、この国でこれを付けられる存在は数少ない。
「第4皇女、クレシア・クリネックス。ただいま戻りました。皆々様にご心配お掛けしましたこと、心からお詫び申し上げます」
女性を表すシルバーの飾り。皇族を表すグリフィンの彫り物。生まれた順を表すスターサファイアの数は4つ。
間違いなく彼女はクレシア姫本人だった。
彼女は船の沈没に巻き込まれて帰らぬ人になったはず。
万が一にも乗客が生き残ることがないよう、危険な船にロリエを送り込んだというのに。
「姫様。ご無事で何よりです」
動揺を隠し、好々爺然と声をかけた。
ロリエに導かれて階段を下りてきたクレシアも、出迎える彼に微笑みかける。
「危ないところをロリエに救われました。貴方の息子は貴方に似て優秀ですね」
「それは……もったいないお言葉にございます」
交わされる社交辞令を、皇帝は興味なさそうに眺めている。いや、娘が助かったことさえどうでもいいのだろう。彼の興味を引ける存在は本当に少ない。
「しかし」
クレシアが階上を仰ぎ見ると、そこにはスコットたちの姿。その足下には黒い衣装を身につけた男たちが縄をかけられ転がっている。
「天然要塞であることに油断して、見張りの一人も置いていないのは些か貴方らしくないと思うのですが?」
度重なる戦を己の知恵で生き延びてきた知将。そう簡単に尻尾は出さないだろう。
「これはお恥ずかしい姿をお見せしました。長い平和に、すっかり腑抜けてしまったようです。しかし、大事になる前に捕らえることが出来て良かった。……そちらの方々は?」
予想通りの返答。
「漂流していたわたくしを助けてくれた、ウィスパー家の者たちです」
「ウィスパー家の……」
王の右腕と呼ばれ、寵愛を受ける一族。社交界に出てくることがなく、今回のクレシア姫の誕生パーティにも不参加だった。
彼が実権を握るための、最後の障害。
煌びやかな場所に不釣り合いな服を着たスコットたちを、見世物でも見るかのような奇異の目で見やるポケット。
「伯爵。わたくしは彼らから信じられない話を聞いたのです」
彼の視線がクレシアに戻る。
「貴方に密輸の疑いが掛かっているとは、まことですか?」
「そんな疑いが?ああ。きっと、所有している船が一月近く動いておらぬからそう思われたのでしょう。私は密輸などしておりませんよ」
クレシアの縋るような眼差し。彼女を安心させるように柔らかく微笑む。
「本当に?」
「ええ、本当です」
ウィスパー家の者にあること無いこと吹き込まれたのだろうと思ったが、心底心配しているのが見て取れるクレシアに、ポケットは安堵する。ここまで慕ってくれているのなら、彼女を次代の皇帝に立てるのもありかもしれない。神代の流れを汲むエルビラ家の血筋を持った女帝という歌い文句であれば、ほかの貴族の支持も比較的得やすいだろう。継承権第十二位だからと今まで視野にも入れてなかったから、ロリエの行為が理解できなかったが褒めてやるべきなのかもしれない。
「そう……ですか」
クレシアが目を伏せる。
「じゃあさ、これはどう説明すんのかな?部下が勝手にやったんだーとか言うのか?」
そう言い、階段を下りてきたスコットは床に紙の束を盛大にばらまく。
紙にはここ一月で行われた海運での取引の明細が書かれていて。
そこに記された納品先、出荷元に幾度となく表れる「ウイング伯爵邸」の文字。
「これは……!?こんな物が?私は、知らない」
初めてそんな物を見たかのように狼狽するポケットを、しかしスコットは冷たい眼で見つめ。
「さっすが狸親父、演技が上手いね。じゃあ、そういうことで良いからさ、話続けるけどいいよね?」
周りが静まりかえっているのを肯定と見て、口を開いたのはクレシア。
「この書類によると、隣国のシスティソフティ王国から火薬を仕入れ、この邸宅に保管もしくは仲間の貴族に渡していた様ですね。と、言うことで、地下の保管庫で調べて来たんだけど、どうも帳簿と数が合わないのよね。私の誕生会を開いた船は伯爵が出してくれた船だったけど、沈む時爆発してたし、不足分はもしかしてそこに積んでたのかしら?」
生来の自由な性格のせいで、だんだんと地が出てきてしまう。
演技自体は嫌いではないのに、皇女という仮面をかぶり続けるのが苦手だから。だから社交の場が嫌いだった。上手く仮面をかぶれなければ、貴族たちからの評価が落ちてしまう。エルビラ家の血もたいしたことないと、大好きな母に恥をかかせてしまう。だから、嫌だった。避けていた。
だが、今は、気にせずクレシアは続ける。自分の言葉で。
「ロリエも話してくれたわ。貴方の計画を。船から乗客が生きて帰ることがないように、船にいる者を皆殺しにさせたのよね」
あの時ロリエの白い礼服が赤く染まっていたのは、返り血を浴びたせいだったのだ。怪我を負ったとは言っても、彼に切り傷は見られず、軽い火傷を負っているだけ。
「ウイング公?」
周りの貴族たちがざわめく。
「わ……わた、私は本当にそんなこと、知らない」
周囲の視線から逃れる様に、ポケットは後ずさる。
「往生際が悪いねぇ。もう全部バレてんだから、認めちゃえって」
「だから、私は」
知らないと言い通すポケットに、クレシアはスコットから渡されていた「最終兵器」を見せる。
手紙が二通。届いた物とそれに対する返信。
「これ、なーんだ?」
悪戯っぽく笑うクレシア。手紙を見たポケットの顔がみるみる青ざめていく。
鍵師でも簡単に開けられない、複雑な作りの鍵で施錠された箱に保管してある手紙。
「あの鍵を開けたというのか……?」
あり得ない事態に、装うことを忘れる。
その様を一瞬残念そうな眼で見つめてから、クレシアは手紙を高く掲げ説明する。
「これはシスティソフティの協力者とのやり取りの最新版よ。皇帝の暗殺計画が詳細に書かれているし、伯爵のサインも入ってる。本当に知らないのなら偽造だって言うはず。でも、貴方は鍵と言った。そう、これが入っていたのは複雑な鍵の付いた箱。鍵は多分、伯爵が今も持ってるはずだけど、どうかしら」
みなが伯爵に注目する。
沈黙。
それを破ったのは低い、威圧感のある声。
「ポケット・ウイング、答えよ」
振り返り、ポケットは声の主を仰ぎ見る。冷酷無比なクリネックス帝国皇帝の姿。たくさんの貴族を殺してきた、冷たい射るような、見透かすような眼差し。
命の危険を感じる。これ以上罪を重ねるのが怖くなる。
このまま認めてしまっても、死刑は確実なのに。
「鍵は、確かにここに」
ただ、そう一言、答えた。皇帝から発せられる恐怖で、それ以上は動けなかった。
「反逆者を始末しろ」
皇帝は感情のない声で脇に控える騎士に命を下す。騎士は腰の剣を抜き、ポケットへゆっくりとした足取りで近づく。
皇帝に反論出来る者などいない。死刑執行は止められない。
騎士は、掲げた剣を振り下ろす。
予想される惨劇に、悲鳴が上がる。クレシアも、視線を避け、きつく目をつぶる。
鋼がぶつかり合う音。
「させねぇよ」
静寂の中、一際大きく聞こえる声。
スコットは受け止めた剣を弾き、騎士の前に立ち塞がる。
困惑の表情を浮かべ、騎士は主の意向を伺うように、背後に視線を向ける。
予想外の妨害者に、しかし興味を持ったのか、皇帝は口を開く。
「国家反逆は死刑だ。何故邪魔をする?」
「もう、人が死ぬのを見るのは嫌だから」
皇帝の視線に臆することなく応える。
いつものヘラヘラした顔とは違う、真剣な眼差し。
「死刑を取り消せとは言わない。ただ、ここで殺すのだけは止めてくれ」
「これは異な事を言う」
彼の、普段は感情の抜け落ちた冷めた目に、面白がるような、喜ぶような、微かな感情の変化が表れる。
が、今ここでそれが解るのは、彼に長年付き従う騎士だけだ。
皇帝の殺気にも似た雰囲気を正面から見据えて、スコットは言う。
「そうかもな。でも、今殺さないで、拷問でもすれば、芋づる式に仲間をあぶり出せるだろうし。悪い話じゃ無いと思うけど?」
挑むような視線。不敵な微笑み。
最後に彼を見た時は、心身共にボロボロで、もう駄目だと思ったのだが。
これなら使い物になりそうだ。
「……よかろう。四の姫救助の件もある。言い分を認めよう」
「どうも」
皇帝が視線だけで指示を飛ばす。ポケットが騎士に連れられて部屋から姿を消すと、広場はざわめく。先ほどまでの緊迫した雰囲気という抑圧を発散するかのように。
噂好きの彼らの口にのぼるのは、もちろんウイング伯爵の事柄。
「スコット」
感謝の気持ちを伝えたくて、彼の傍に行こうとするが、貴族たちに阻まれてしまって身動きが取れなくなる。
簡単に挨拶を済ませて、進もうとするが、彼女に興味を持った貴族は尽きることなく押し寄せる。
そうこうしているうちに、広間からスコットたちの姿は消えていた。
ざざ……ざざーん……
ウイング伯爵邸から程近い街の港に、エリエール号は停泊していた。停泊許可申請時に出した出航日は明日だったが、船上は出発の準備に追われている。慌ただしく乗組員が作業するのが窓の向こうに見える。
「お姫さん、乗っけてかなくて良いんですか?」
激しい運動は絶対禁止ときつく言われていたにもかかわらず、凄腕の騎士の剣を受け、塞がりかかっていた傷口を広げて帰ってきたスコットを、涙目で小一時間責めた船医兼副船長のトイは、包帯を取り替えながら尋ねる。
「いいんだよ。あいつの帰る場所はここじゃない」
そう言う彼の横顔に微かに寂しさが見える。
色々とクレスに意地悪はされていたが、お互い馬が合わなかったわけではないようで。
ちょっとしみますよ。と声をかけて、しかし一番しみる薬をスコットの傷口に塗る。
「痛ってぇー!!!って、すっっげえ痛いんだけどこれ。もっと痛くないの無ぇの?」
痛みで目を潤ませながら抗議してくるスコット。
「一番痛みが無ぇ絶対安静って薬は、効き目が無かったみてぇなんで」
天罰と言わんばかりの勢いで、再び傷口に薬のたっぷり染みこんだガーゼを押し当てる。
スコットの悲鳴が船内に響くが、無視して治療を進める。
「もう無理しねぇでくださいよ」
「……ごめんなさい」
捨てられて震える子犬のような眼差しで、謝罪の言葉を述べるスコット。
彼がレットやティルよりも年若なのに副船長職に就いているのは、医術に長けているからだけではない。
スコットは悪いことをしたと気づいても、言葉で謝ることは絶対にない。それを無理矢理にでも言わせるトイの強引さが買われて、彼が副船長になった。初めは戸惑っていたトイも、今となってはばっちり女房役をこなしている。
てきぱきと動くトイの手から視線を外し、窓の外をぼんやり眺める。
「それにしてもさー。あいつ姫だったんだな」
びっくりだよな。と、寂しそうな顔で笑う。
そんなに離れがたいなら連れて行けばいいのに。
そう進言しても、この船長はきっと受け入れない。だからみんな言わない。
「気づいてなかったんですか?」
「や、女の子なのは解ってたけどさー。クレシアに似てるとも思ったけどさー。お姫様なのに、あんなおてんばとかあり得ないと思って、どっかの下級貴族のご令嬢だと思ってたんだよね。見た目の年齢とかも合わないし」
トイから返答はない。鏡越しに後ろで作業するトイを見ると、彼は気の毒そうな表情を浮かべてスコットを見つめている。
「……もしかして、クレスがクレシアだって気づいてた?」
トイは視線を逸らす。そして言いにくそうに、
「気づいてなかったのは船長だけみてぇです」
「え」
驚愕の事実を告げる。幼少時のクレシアを知るスコットでさえ気づかなかったというのに、どうしてみんな気づいていたのか。
スコットが聞くと。
「エルビラはクレシア姫の母上の旧姓ですし、若作り一族なのは周知のことですし。何より、ピアスホールが両耳二つずつあるのは、余程のお洒落さんか、皇族かのどっちかですから」
ただのお洒落さんだったとしたら、出会った時の服装はもっと華美な物だったはずだ。それが地味目な色合いの服を着ていたから、もしかしたらトイは出会った瞬間から、彼女がクレシアだと気づいていたのかもしれない。
言われてみれば、彼女の耳にはピアスホールが二つずつあいていて。その外側の方には薄いグリーンの小さい石がはめ込まれた物が、内側は両耳とも席を空けるかのように付けられていなかった。
「そっか。ピアスは気づかなかったな」
「知らぬは皇族ばかりなり、ですかね。はい、できました」
治療終了の声を聞いて、立ち上がる。
タイミング良く、窓の外の作業も終わったようだ。
「じゃ、最終確認して出発するかね」
シャツを羽織り、甲板へ出る。
荷の出し入れをし易いように、切り立った崖に作られた港。陸地と甲板の高さが、他の港と違い、同じ高さにある。
夜であるにもかかわらず、港は昼間のような喧噪に包まれている。酒を酌み交わし笑い合う人々、音楽を奏でる人、それに合わせて踊り出す人。明るい雰囲気。
その中に、見知った顔を見つけて、スコットは顔をしかめる。
「やべ。見つかったら、私も一緒に行くとか言いかねないよ」
確認も早々に終わらせ、出発の合図を出す。
岸壁に繋いでいた縄を外す。碇が引き上げられる。帆が張られる。
「スコット!」
昨日まで良い秋風が吹いていたのに。今夜に限って真夏に戻ってしまったように風がない。
まだ飛び移れる距離。
でも、クレシアは岸に立ったまま。
潜入する時に使った裏道を急いで通ってきたのか、服は泥で汚れ、頭には葉っぱが乗っている。
「スコット。ありがとう。ウイング伯爵のこと、止めてくれて。お父様のこと、助けてくれて」
肩で息をしている。走って来たのかもしれない。
「ネピアまでって約束だったけど、私、お父様たちと行く。ごめんなさい。あと、皇女だってことも黙ってて、ごめんなさい」
「謝ることじゃねぇよ」
髪に付いた葉っぱを取ってやる。嬉しそうなクレシアの表情。幼少時に懐いていた兄とスコットを重ねているのかもしれない。
その様子が、愛しい、と思った。
「貴方たちと出会えて良かった。気負わなくても、飾らなくても、家族だって言ってもらえたから、胸を張っていられる。貴方たちの家族であり続けたいから、がんばれる。だから、エリエール号に乗ってなくても家族でいたいんだけど……いいかな?」
今までの自信満々なクレスからは想像も付かない気弱な表情。
ふっと、自然に笑顔になる。手を伸ばそうとして止める。触れてしまえば抱きしめて、攫ってしまいそうだったから。
目を閉じ、こみ上げる気持ちをため息の形ではき出す。
「女言葉といい、殊勝な物言いといい。お前らしくないんだよ、気持ち悪い。お前はネピアまで船長さんなんだろ?だったらいつものように言えばいいじゃねぇか」
忘れずに慕ってくれているから。本当のことを教えてあげたかった。
でも。戻る気が無いから。言えない。
最後まで、「スコット」を演じきる。
「そうだね。そうだった」
彼の言葉で思い出す。
弱気になる必要はなかった。海賊に負けまいと、傍若無人に振る舞っていても許してくれる人たちだった。
拒絶されることが怖くて、彼らの姿が見えなくなっていた。
「じゃあ、お前たちと私はいつまでも家族だ。どんなに離れても、ずっとずっと家族だ」
「あいさー」
船員たちの了解の声が重なる。
それを、満足そうな顔で眺めて。ふと悪戯を思いつく。彼はどんな顔をするだろう?
「スコット」
呼ばれて、クレシアに服の袖を引かれる。そして、頬に柔らかくて温かい感触。
「へ?」
突然の出来事に、間抜けな声をあげることしか出来ない。
そんな間抜け面を見て、少女は愉快そうに微笑む。
「ふふ、今世紀最大の馬鹿面」
「ひっでぇ」
「でも、嫌いじゃない。というか大好き」
「そりゃどうも」
肩をすくめて応じる。
風が吹き始める。だんだんと岸が遠くなる。
「お前たちと出会えて本当に良かった。楽しい夏休みだった。ありがとう。もう会うことはないかもしれないけど、みんな元気で!」
「クレスも元気でなー」
船員が口々にお別れの挨拶を叫ぶ。
彼女はずっと手を振っていた。夜だから視界が悪いのに。船が隣の島影に隠れて見えなくなるまで、名残惜しそうに。
良い子だったな。と、船員は共通の思いを抱き、持ち場へ戻る。
「あれ?スコット、どうしたの?」
隣で膝を抱えて暗い顔をしている船長の視線に合わせて、ティルは問いかける。
「もしかして、離れるのが寂しくて死にそう……とか?」
家族の話を聞く時、よくクレシアの名前が挙がっていたから、大事にしていたことは想像が付く。
あり得なくはないと思う。
が。
「どうしよう。会って三日しか経ってない男にキスするなんて……クレシア、スリムみたいな尻軽に育っちゃったのかな……お兄ちゃん、ショックでどうしよう。やっぱ帰ろうかな……」
今まで、冗談でも帰るなんて口にしなかったのに。
うちの皇子はいつになったら在るべき場所に帰るのかと思っていたら。
「心配なら帰りなよ」
本気で悩むスコットの肩に、優しく手を置く。
少女は在るべき場所で生きる勇気を手に入れた。
彼女は帰る。でも、彼は帰らない。
帰るには、まだ理由が足りないから。
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