「無垢なあの頃」
「…しまったな」
国境にまたがる大きな森。軍事演習を見に行った帰り、近道と思って入ったのが間違いだった。
木々の間から見える太陽の位置を確認しながら走っていたはずなのに、一向に森を抜ける気配がない。
長距離を走れるように訓練された馬だったが、走り始めてかなりの時間が経っている。そろそろ休ませなくてはと、辺りを見回す俺の鼻腔が、微かに湿気を捕らえた。水場が近くにあるようだ。
そちらに向かって走り出してすぐに、視界が開けた。
森の中の大きな湖。水面が森の景色を映している。
水質を確かめようと、愛馬から降りて近づく。
ちゃぽ。
水音に視線を向けると、水浴びをしていたらしい少女と目が合った。
「あ…」
「ご…ごめんなさい、覗くつもりは!!」
慌てて後ろを向く。
「どうしたフェミア!…この曲者が!!!」
聞いたことのあるような声がして、後ろから襲われる。
気配だけを頼りに、振り返ることなく、鞘に収めたままの剣で相手の攻撃を往なす。戦いに不慣れな彼の隙を付いて、腕を掴んで引き倒す。
「うぁ…」
見事に顔から地面に激突する。どこへ行っても美麗だ艶美だと言われる端正な顔が。
「…ごめん、ルル」
受身まで取れないなんて思わなくてさ。
「ザクが謝る必要はありません。悪いのは貴方に気づかないルルの方です」
鈴を転がすような少女の声。
名乗った覚えは無いはず。反射的に振り返ってしまう。
少女はもうすでに、木陰で着替えている。俺は胸を撫で下ろす。
「もうちょっと手加減しろ。この体力馬鹿」
地面に座り込んで恨みがましい目で見上げてくるルル。思った通りの反応。鼻を擦りむいたのか、赤くなっている。
「やっぱり、ザクなのですね。ルルのお話しの通り!」
着替え終わった少女が木陰から姿を現す。
自国でもルルの国でも見かけない形の服。長い布をただ巻きつけただけのような姿は、少女の可憐さと相俟って、神話の神々を連想させる。
「ずっと会いたいと思っていました。わたくしとも、お友達になってくれますか?」
差し出される手。傾げた首の動きに合わせて、乾ききらない桃色の髪がさらりと肩から落ちる。
「こんなのと友達になったらガサツになるぞ?」
「君は元からガサツだろ」
ルルの横槍に動じず、少女は手を出し続けていた。
俺が手を重ねると、少女は大きな目を細める。満面の笑みの間から見える、少女の不思議な色の瞳は、ルルと同じ色。
「わたくしはフェミア。よろしくね」
「よろしく。俺の名前は…って、もう知ってるよね」
和やかな2人の雰囲気に、ルルも満更ではないようで。擦り傷の出来た顔に笑みを浮かべている。
「あら?」
フェミアが何かに気づき、目を凝らしている。
「ここに来るまでに道に迷わなかった?」
「え?」
少女が手を中空に上げると、光の粒が1つふわりと飛んできた。
「森のピクシーが悪戯していたみたい。悪気はないの。怒らないであげて?」
「1人でなければ引っかからなかっただろうに…お前、護衛はどうした?」
彼と彼女が居るという事は、ここはジールかアレントなのだろう。
「真っ直ぐ城に帰るつもりだったし、1人のほうが早いから」
護衛を申し出てくれた将軍には、最近の軍備強化で治安が格段に良くなったからという理由で断りを入れたのだが。
「そうだな。お前に勝てる野盗がいるなら会ってみたい所だ」
俺の力量を思い出して、ルルは苦々しく言い放ち、
「それでも、仮にも一国の王子が形式だけでも護衛を連れていないのは、どうかと思うけどな」
したり顔で締めくくる。
貴方がとても強いことは知っています。それでも、誰か1人必ず傍に置いて私を安心させて頂戴。
ふと蘇える母の言葉。ルルの言葉は正しい。腹の立つくらいに。
「そういう君たちはどうなの」
見たところ、まわりには俺たち以外の人の姿も気配もない。
「俺がフェミアの護衛だ」
誇らしげに胸を張るルル。魔術では彼に勝てた経験はないが。
「こんなへなちょこ皇子が護衛で大丈夫?」
剣術はからきしな彼に、フェミアは不安を覚えたりしないのだろうか。
心配を余所に、少女はからりと言い放つ。
「もしもの時は叫ぶってお姉様との約束だから」
へなちょこじゃない!と反論していたルルが明らかに肩を落とす。
ルルを信用してないというわけではなく、義理の兄妹といえど、賓客である他国の皇子に自国の姫を守らせるわけにはいかないということだろう。直にまみえた事はないが、妖精王はそういう、しきたりなどに厳しい人だと聞く。
フェミアは、そういうこと関係なく、約束だからそうするというだけだろうが。
「あら、ルル。どこか痛むの?」
表情の暗い自称護衛の顔を、姫君は心配そうに覗き込む。
彼の落胆の意味は解っていた。彼の勘違いを正そうとすると。
「さっきはザクだと思って手加減をしたせいで不甲斐無い姿をさらしてしまったが、今度は本気で行くぞ」
先ほどの意気消沈はどこへやら、いつもの不敵な笑みを浮かべて、ルルは再戦を要求してくる。
俺は剣。ルルは魔術。
ほとんどの剣士は魔術師との戦いを忌諱するが、俺にとっては逆だった。ほとんどの剣士が稽古の
相手にならないせいもあるが。
太陽の位置もまだ高い。夕暮れまでに戻ればみんな心配しないだろう。
「しょうがないな」
ある程度楽しんだら手加減をして、ルルに花を持たせてあげてもいい。
でも、手加減出来ないかも。
君も知ってるだろう?俺も君と同じくらい負けず嫌いだって。