「大事なものは目蓋の裏」


激しい音を立て、雨粒は大地をたたいている。
ロイは、都を見下ろす丘の上で傘もささずに立ち尽くしていた。


あの時、彼は死ぬはずだった。
覚醒した大鷹の中に、彼女の心がまだ残っていたとしても。
彼は死を望んだ。だから、抵抗もしなかった。
全ては歴史の示すままに進むはずだった。
なのに。


夏の温まった空気を押し流すかのように、雨は冷たい。
それなのに、頬を伝う滴は温かくて。


歴史を継ぐ一族だから。誰も知り得ない世界の仕組みも知っていて。
全てが人の思い通りにならないことが解っていたから。
真剣になれなくて。
生きるのも馬鹿馬鹿しくて。
いつも死に場所を探していた。


彼女のために死ねるなら。
自分の意味のない一生も、無駄では無かったと思えるから。
だから。彼女の願いを叶えようと思った。
なのに。


大鷹の支配を逃れた彼女は、彼に言った。
「生きてください」
大鷹が目覚めれば、彼女の心は牢獄に囚われ、消えてしまうはずなのに。
そういう抗えない運命の下に生まれてきているはずなのに。


「……どうすればいいのかなぁ」
空を見上げ、いつもの軽薄な表情を浮かべようとする。
が、上手くできなくて。
声も震えている。
それで、ようやく自分が泣いていることを理解する。
今まで、たくさんの仲間を失ってきたというのに。
失うことになれていたはずなのに。
「僕は死にたいのに。生きてくれって言われてもねぇ」
彼女が自分に好意を寄せていることは知っていた。
彼女のことは嫌いではなかった。
……ずっと仲間だと思っていたんだけど。どうやら違ったみたいだ。
いつの間にか彼女は、失って悲しいと思うくらい、大きな存在になっていた。
静かに涙は流れ続ける。
感情が抜け落ちたかのように、涙だけが彼の感情を表現する。
と、背後に気配が現れる。
こんな夜中に出歩く人間なんていない。
彼を捕まえるための追っ手。
が、追っ手はその場から動かない。
ゆっくりとした動作で、ロイは振り返る。
一歩下がった所で控えていたのは、追っ手ではなく。
紅い髪、活発そうな表情、動きやすいよう配慮された服装。
「私は玉兎守護宗家、蒼月家が長女、カノン。本日より護衛の任に付きます」
都を統べる天子の一族、金烏の影であり、緊急時のスペアとして存在する玉兎の一族。
それを守ることを使命とする一族の娘。
「僕は都から追われる身だよ。君が守るに値しない」
「何があっても、私は貴方をお守りします」
力強い眼差し。
小さな頃より玉兎に仕えることだけを教えられて生きてきたのだろう。
それ以外の生き方を教えられていないのだろう。
教えた人間も、教えられた人間も、それを疑問に思わない。


それがこの世界の仕組み。
誰もが抗えない不可視の力で縛られたこの世界の現実。


「後悔しても知らないよ?」
少女の瞳は揺らがない。
それを、ため息混じりに確認して踵を返す。
「国を出る」


彼女は最期の最期で、世界の意志に逆らった。
誰もが逆らうことの出来ない「決まり」を打ち破った。
そんな彼女に救われた、そんな彼女の命と引き替えに生きながらえた。
その時間を、大切にしなくてはならない。
彼女の様な、悲しい結末を迎える人間を増やさないように。


彼は、世界を壊しにゆく。



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