「皇子と大佐」


かぽーん。
鬱蒼と茂る木々。太古の昔から人々に神聖な場所として大切にされてきたここには、あの頃と変わらない清浄な空気が溢れている。
──ここならアイツも羽根を伸ばせるだろう。
人間はもちろん、この森の主であるエルフですら知るものはまれな秘湯。
気丈に振る舞ってはいるものの、追手を常に意識し続ける生活に、十分な休息をとることが出来ていない同行者のために、少し寄り道したのだ。
「あはー。貸切だと思ったのになぁ。ざーんねーん」
目を閉じ、温泉を味わっていると、落胆の声が聞こえてきた。
──追手か?ただの旅行者か?男一人だけか?女湯は、アイツは大丈夫か─…?
「隣、お邪魔しまーすよ」
ルルの警戒を余所に、眼鏡の男はルルのすぐ隣に腰掛けた。
貸切じゃないことを嘆いていたのに、こんな広い露天風呂だというのに、何故。
──コイツ!?
思考も行動も読めない男に、緊張が高まる。
ぐりぐり。
「眉間にしわを寄せてたら、温泉入ってる意味ないよー?ほーら、リラックスリラックス」
笑顔で男がルルの眉間をほぐすように押す。
「──ッ!」
男の手を弾き、間合いを取る。
相手の動きが突飛過ぎて、調子が狂う。
もうこの際、ただの旅行者だろうと関係ない。次、不審な動きをしたら少しばかり痛い目にあってもらおう。
未知への恐怖心から逃れるために、そう決め、ルルは抑えていた魔力を放出する。
「あらー。ザク王子と違ってルル皇子は短気なんだねぇ」
やれやれ、困っちゃったなぁと、大して困った風に聞こえない調子で言う男。
「お前…」
何者だ?と問おうとして気づく。
「……天使族か」
色素の薄い瞳と髪。そして、四百年も昔の人物の名を知っている知識。
「僕はただの先祖返りだけどねぇ」
だから背中に翼が無いのか。
「その、ただの先祖返りが何の用だ?
まさか、一族の恥とまで罵ったナイゼルの軍門に降ったか?」
もしもの時のために、魔力を抑えることはしない。
「温泉に入りに来ただけだよん」
しかし、返ってきたのはあまりにシンプルな答え。
──どいつもこいつも……!!
天使族と関わっていい思い出が無い。全くと言っていいほどに。
「だったらもっと向こうに入ればいいだろう」
懐かしい思い出に触れ、子供っぽい反応になってしまう。
「そうだねー」
返事はあったが、一向に動く気配が無い。
動けない理由があるわけでなく、動く理由がないから動かない。ただそれだけだ。
そう理解していても、近い距離に何をしてくるか分からない他人がいると落ち着かないもので。
ざばぁ。
「やっぱりアレントに行くのかい?」
上がろうとするルルに男が声をかける。
「お前には関係のない事だろう?」
振り返って微笑んでみせる。
向こうはこちらを見透かしているのに、こちらは全く相手の素性を掴むことが出来ない、せめてもの虚勢。
「そうだね。でも、まずミカエリスに行くといいよ。君の人生変わっちゃうよ♪」
「ミカエリスに?」
意図を問いただそうとしたその時。
絹を裂くような悲鳴がした。



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