「令嬢と皇子」


……何でこんなことに……?



漂う硫黄の香り。視界を覆い隠すかのように立ち上る白い湯気。
横目で入り口の方を見やると、白く華奢な背中。
それから視線を再び逸らして、湯船に沈み込む。
ここは辺境の村にある小さな宿屋の浴場。ロイの持っていた本に載る程度に有名な温泉らしいが、シーズンオフであるせいか、客はルルたちしかいない。
「……あの変態男め」
そもそも、あの男がここへ案内しなければこんなことにはならなかった。
そう。ロイの持っていたガイドブックのタイトルは「うはうは混浴温泉ガイドマップ」。それに載っているわけだから、ここももちろん混浴だ。だから鉢合わせしないように、女性は明るいうちに入るという話だったはずが。
「あ。ルル、いたの?夜遅いから誰もいないと思ったんだけど」
水音か憎々しげな呟きか。そのどちらかを聞きつけ、温泉につかる他人に気づいたミリィは声をかける。
濁り湯だから、湯に浸かっている限り見えないわけだが。
「慎みという物はないのか……?」
ミリィは縁に背を預け、こちらを向いて湯を楽しんでいる。
四百年経って、女性の恥じらいの意識は変化してしまったのか?とも思ったが、そういえばフェミアも似たような行動をとっていたから、そう変わりはないのかもしれない。
「ルルは女性の体を無遠慮に見たりしないでしょう?紳士だものね」というフェミアの言葉を思い出す。
きっと彼女も、ミリィも。ルルを信頼しているのだろう。
その信頼を守る理由も無かったが、壊す理由も無いから。ルルは湯の中央に飛び出た岩の後ろに回り込む。
コポコポと湯が流れ込む規則正しい音だけが響いていた。
「ねぇ、ルル。何でルルは旅をしてるの?」
湯気に紛れて消えてしまったルルに問いかける。
彼は優しいから。こちらを見てしまわないように、きっと向こう側であの岩を背もたれにしているのだろう。
小さなランプの明かり。空を埋め尽くす星明かり。猫の目の様に細い月。
幻想的な雰囲気で、沈黙も気にならない。
「私はね、友達を捜してるの」
まだ誰にも告げていない、旅する本当の目的。温泉のリラックス作用なのか、取り囲む景色の賜物か、開放的な気分になる。
「ずっと寂しそうな、独りぼっちみたいな顔をしてる友達が、失踪しちゃって。捜さなきゃって思って」
一緒にいても、どこか遠いところを見ていた彼女を。
一人でいるのが当たり前みたいな顔をする彼女を。
支えたいと。助けたいと。思ったから。
「捜してくれと頼まれたのか?」
ルルの問いかけに、否と答えると。
「じゃあ、捜さない方が良いんじゃないのか?失踪するからには何らかの理由が有るんだろうから、無理矢理捜し出す方が相手のためにならないと俺は思うけど、どうかな?」
何度も自問自答した質問を投げかけられる。
捜し出して、嫌な顔をされたらどうしよう。私が原因で、失踪したんだったらどうしよう。
不安が無いわけではない。
それでも。
「もう一度会いたいと思うのは、私のわがまま。相手のことばっかり考えてたら動けなくなっちゃうから、しばらく考えないことにしたの」
それが間違いでも構わない。
何も教えられないまま、引き下がる方が嫌だから。
「そうか」
力強い答え。真っ直ぐで、飾った所のない考え方。
どこか、フェミアに似ている。
「……俺は」
話す気は無かったのに、懐かしい雰囲気に誘われて、口が動く。
「俺は、妹の仇を捜してる」
「仇?……仇を捜してどーするの?」
返る言葉は解っているのだろう。おどけた口調。
「見つけて、殺す」
ごまかすことも出来た。でも、しなかった。
やっぱりと言いたげなため息が聞こえる。
「妹さんは、そんなこと望んでないと思うけど?」
予想通りの返事に、ルルは目を閉じる。
考えなくても解ることだった。
全ての人の幸せを願っていたフェミアが、誰かが死ぬことを望むわけがない。
ルルが手を汚すことを望むはずがない。
現実から目をそらしていた。彼女を言い訳に使っていた。
フェミアの存在が大きすぎて、それ以外考えられなくなっていた。
「そう……だな。俺のも、君と同じで、わがままだ。俺がしたいからそうする、それだけだ」
フェミアのことを抜きにしても、ナイゼルは捜さなくてはいけない。この今の情勢を見たら、きっと彼は過去の過ちを繰り返すに違いないから。
「んー。出来れば、ナリのためにも、ルルには思い留まって欲しいんだけどな」
「ああ。ナリのためにも、一発殴るくらいで終わらせておこう」
つい数時間前から成り行きで仕方なく行動を共にしているだけの赤の他人を、本気で心配しているミリィに、ルルは話を合わせる。
ずっと過去に囚われて。ずっと孤独に戦って来て。心が凍り付いていた。
ミリィの太陽のような優しい心に感化されてなのか、温泉の暖かさで冷静な判断が出来なくなっているのか、冷酷な考えが押し流される。
ナイゼルが再び禁呪を使わなければ、それでもいいと思った。実際、フェミアの命を奪ったのは彼ではないのだし、彼女を守りきれなくてザクに責められたのも、自分の力不足のせいなのだから。
宝石箱をひっくり返したかのような、満天の星空を見上げる。
「君の友達が早く見つかるように祈ってるよ」
「ありがと」
祈りを聞き届けたかのように、流れ星が流れた。



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