「終わる物語。されど続く世界」


馬にまたがった俺に、彼女は言った。
「ルルと仲良くしてね。ルルは解りにくい言い方しかしないけど、悪い子ではないから」
最後の別れかのように、彼女は言った。
「あなたのことを愛してる。私のわがままに付き合ってくれたこと、とても感謝しているわ」
今までに見たことのない美しい笑顔で俺を見送って、彼女は言った。
「気をつけて行ってきて。私は大丈夫だから。心配しないで」



本当は離れたくなかった。
異界黙示録やクレアバイブルという異名のついたルール・フラグメ。それの原本を見つけたあの日。
彼女は、ルール・フラグメと紫眼の力を、封じた。
自身を鍵として。ミューズに続く道筋を、誰にも使えないように塞いだ。
「願いを叶えるためには必要なことなの」
紫眼の能力ゆえに未来を見通すフェミアは、そう言ってザクにお使いを頼んだ。
ここから馬で半日以上かかる場所にある、ケット・シーの村へ荷物を届けるだけの簡単な仕事。
普段なら二つ返事で請け負っただろう彼女のお願いに、ザクは戸惑いの表情を浮かべる。
確信があるわけではなかったが、予感がした。
このお願いを聞いてしまったら。彼女の傍を離れたら。彼女を失うことになる気がする。
世間では、紫眼狩りなどという凶行に及ぶ者が増えていた。彼らに見つけ出された紫の眼を持つ者は、みな瞳をくり抜かれて殺されてしまう。それでも、山奥に位置するこの村にはまだ魔の手は伸びていない。ここで大人しく身を隠していればやり過ごせるはずだ。
なのだが。
鍵を掛けた宝箱を、二度と空かない様にするにはどうすればいいか?
それを考えると、ザクが戻るまでフェミアがこの村でじっとしているとは思えなかった。
「ザクにしか頼めないの。ザクが行かなくては意味がないの」
ザクから返事がないのを拒否と取ったフェミアは困った表情で言う。彼女は、彼がその顔に弱いことを知っているのだ。
「だから、お願い」
「……大人しく身を隠しているって、約束してくれるかい?」
幼い頃、大事に思っていた物を入れて鍵を掛けた宝箱は、鍵を無くしてしまったから。二度と開くことはない。
使命に忠実な彼女は、必要と思えば自らの命も捨ててしまいそうな危うさを持っている。
「心配しなくても、この村から出たりしないわ」
彼の不安をぬぐい去るかのように微笑んで。
「だから、ね?」
そう言い、彼女によく似合う桜色の布で包まれた品物を差し出してくる。
彼女の願いを断ることは出来ない。
世のために生きる彼女を支えることが、自分の負った罪を償う方法だと思ったから。
その思いに背くことは、何があっても、してはいけない。
「解った」
受け取った包みは、存在感のある重さをしていた。
彼の使命への想いと同じ様に。



急いで帰らなくては。
先程まで満天の星空だったが、東の空が白み始めている。夕飯は摂っていなかったが、空腹感よりも焦燥の方が強い。
何故、こんなにも焦っているのか。
律儀で一本気なルルだから。親友との約束ならば、必ず守るだろう。それに、ザクのお願いなど無くても、フェミアは腹違いだが妹だ。彼女に危機が迫れば無条件で守ってくれるはずだ。彼は当代一の魔法使いなのだから。紫眼狩りなど敵にもならない。
そう思っても、どうして、こんなにも胸がざわつくのだろう?
「もう少し、頑張ってくれ」
バテはじめた愛馬に声を掛ける。
ケット・シーの村に到着したのは夕飯時。そこで宿泊することを勧められたのだが、断っていた。
彼が駆けるのは、王子であった頃から一緒に育ってきた、遠乗りを得意とする駿馬だ。これくらいの距離はどうってことないはずだったのだが、気が急いているせいで、いつもよりペースが上がっていたのだろう、折り返して半分を過ぎた辺りで疲れが見えてきた。
それでも、止まるわけにはいかない。
虫の知らせとでも言うのだろうか。早く戻らなくては悪いことが起こる、そんな気がしていた。
あの峠を越えれば、村に着く。
思ったより早く付けそうだと安堵したその瞬間。
悲鳴が聞こえた。
聞き慣れた声。
男の、叫び声。
ルルの声だ。
焦燥感が蘇る。彼の大声を、しかもあんな悲愴な声を、今まで聞いたことがない。
一体何が。
不安を押し殺し、馬を駆る。一気に峠を越え、村へ入る。
血の、臭いがした。それも、おびただしい量の血の。
大きくない村だから、すぐに臭気の元は見つけられた。
見知った村人も、見知らぬ人間も。みな一様に裂傷を負って絶命していた。
ここで、何が……?
彼らがいるのは、村の広場。代表が集まって議論したり、奉納の神楽を舞ったりする、小さな舞台のついた場所。
ルルは、その舞台に座り込んでいた。
彼も傷を負っているのか、それとも返り血なのか、全身血だらけで何かを大事そうに抱えている。
「ルル、一体何が」
「ザク……すまない」
舞台に上がって初めて、彼が抱えているものが何か、理解する。
血で汚れていても解る、美しい桃色の髪、透けるような白い肌、目蓋は今は固く閉ざされていて、綺麗なアメジストの瞳を隠している。彼女は、間違いなく。
「フェ……ミ……ア?うそ……だろ?」
そのしなやかな肢体はたくさんの槍で貫かれ、白い衣装を赤く染めている。
近づかなくても。脈を確かめなくても。彼女に息がないことが解る。
「心配しなくても、この村から出たりしないわ」
彼女は、この村から出なくても、紫眼狩りがここへやって来ることを知っていたのだろうか。
自ら赴かなくても、彼らによって命を奪われることを予知していたのだろうか。
だから俺を、ここから遠ざけたのだろうか。
解らない。答えを知っている少女は、もう二度と目を開けることはない。
「俺が。俺のせいで……フェミアは」
ルルの声など、聞こえなかった。彼が泣きそうな声で、それでも言い訳せずに謝罪していたのに。
ダン!と、ザクは力任せに広場を囲む柵に拳を打ち付ける。当たり所が悪かったのか、それとも作りの粗末な柵から釘でも出ていたのか、彼の手から鮮血が滴る。
不思議と痛みは感じない。
「約束しただろ!フェミアを守るって、約束したのに……どうして!」
予感があったのに、それを防げなかった自分が悔しくて、声を荒らげた。
「なんで彼女はこんなことになってるんだ!?」
感情の赴くまま、ルルに八つ当たりする。
ルルは言い返すこと無く、腕の中で体温を失っていく少女を抱く力を強める。
「君は、当代一の、最強の魔法使いなんだろう!?それなのに、どうして女の子一人、守れないんだ!君がいてくれるから、だから安心して出かけたのに。なのに」
彼にもきっと、どうにも出来ないことだったのだろう。何かどうしようもないことが障害となって、力を振るえなかったから、だからこういう結果になってしまったんだろう。理性では解っていても、心が理解してくれない。必要以上に責め立ててしまう。失ったモノが大きすぎて。
「どうして、守って、くれなかったんだ」
怒りをはき出すと同時に、悲しみが襲ってくる。涙が、止まらない。立っていられない。
フェミアという支えを失って。心まで立ち上がれなくなってしまう。
彼女のために生きようと。彼女の願いを叶えることが罪を償う方法だと、決めたのに。
再び、生きる意味を見失ってしまって、途方に暮れる。
「すまない」
「謝ってもフェミアはもう……帰ってこないんだ」
「ああ、帰ってこない。ナイゼルが青き調和《ブルー・コスモス》さえ作り出さなければ、紫眼への悪意は生まれなかった。フェミアの命を奪ったのはナイゼルだ。やつの思想はフェミアの遺志にも反している。俺は、ナイゼルを殺しに行く」
彼の言葉に、心が反応する。
「フェミアの……遺志?」
ルルを見上げる。彼は、決意したような澄んだ眼差しをしている。
「ああ。フェミアは全ての人の幸せを願っていた。その願いを叶える力になると約束した。この約束だけは、俺は、死んでも守る」
力強い宣言。
「ザク。俺に協力してくれないか?お前がいれば、俺は無敵になれる。お前が必要なんだ」
「ザク、あなたに協力して欲しいことがあるの」「ザクにしか頼めないの」
同じ紫色の瞳。彼女の影が、重なる。
彼の言葉に疑問を持てなかった。冷静さを失っていた。何も考えられなかった。
差し出された手をつかんでしまう。
再び目の前に現われた生きる意味にすがってしまう。



自分のなすべきことを忘れて。
自分の誓いを忘れて。
少女の願いを取り違えて。



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